急に暑い日が続くようになり、体調にも変調をきたしがちな25年6月下旬の今日このごろ、皆様ご健勝であろうか?こう急に気温が上がってしまっては体も心もなかなかついていかない…なんて人もいるかと思う。なので今日は北欧ジャズでちょっと涼しい気持ちになってもらえればと思う。
ノルウェーのジャズシーンから登場したHelge Lien Trioは、その繊細で詩的な音楽性で世界中のリスナーを魅了してきた。彼らの2011年のアルバム『To the Little Radio』は、トリオの音楽的探求の深さと、独特の美意識が凝縮された傑作であり、アナログレコードとしてだけでなく、その優れた録音品質ゆえに、高音質オーディオファイルとしても数多くの好事家に愛されている一枚である。
このアルバムは、Keith Jarrett、Brad Mehldau、Esbjörn Svensson Trio (E.S.T.)、GoGo Penguinといったピアニストやトリオのファン、あるいはECMレーベルの作品を好むリスナー、私が以前紹介したTERJE GEWELTが気に入ってくれた読者などには特に響くものがあるだろう。北欧ジャズの透明感と、伝統的なジャズの深い表現が融合したサウンドは、内省的で美しい音楽体験を求める人々に強くおすすめしたい一作である。
Helge Lien Trioのバイオグラフィ
Helge Lien Trioは、ノルウェー出身のピアニストHelge Lienを中心に、ベーシストのFrode Berg、そしてドラマーのKnut Aalefjær(クヌート・オーレフィエル)によって結成されたジャズトリオである。彼らは1999年にその活動を開始し、以来、ノルウェー国内にとどまらず、国際的なジャズシーンにおいて確固たる地位を築き上げてきた。
トリオのサウンドの核にあるのは、Helge Lienの卓越したピアノ演奏と、彼が紡ぎ出す叙情的なオリジナル楽曲群である。Lienの作曲は、北欧特有のメランコリックで広大な風景を思わせる一方で、ジャズの伝統的なハーモニーと即興性を深く理解していることを示す。彼の演奏は、ときにミニマルで内省的でありながら、感情の起伏を繊細に表現し、聴き手の心に深く響く。
Frode Bergは、その堅実かつメロディックなベースラインで、トリオのサウンドに強固な土台と豊かな色彩を与える。彼は単なるリズムセクションの一員としてではなく、時にソロイストとして、またピアノのメロディに対するカウンターパートとして、楽曲に深みと動きをもたらす。Knut Aalefjærのドラムスは、その繊細なブラシワークからパワフルなグルーヴまで、幅広い表現力でトリオのダイナミクスを支える。彼のドラミングは、単にリズムを刻むだけでなく、音の空間を巧みに操り、音楽全体に有機的な息吹を与える。
彼らの音楽性は、ECMレーベルのアーティスト群、特にTord Gustavsen TrioやBobo Stenson Trioといった北欧ジャズの巨匠たちと比較されることが多い。しかし、Helge Lien Trioは、伝統的なジャズの語法を尊重しつつも、よりパーソナルで現代的なアプローチを取り入れることで、独自のアイデンティティを確立している。彼らは、静寂と音の間に存在する「間」の美しさを追求し、一音一音に込められた意味を深く掘り下げていく。その結果、彼らの音楽は、聴く者に深い瞑想と感情的な共鳴をもたらすのである。数々のアルバムリリースと国際的なツアーを通じて、Helge Lien Trioは、現代ジャズシーンにおいて最も刺激的で成熟したトリオの一つとして認知されている。
アルバムの概要
『To the Little Radio』は、Helge Lien (ピアノ)、Frode Berg (ベース)、Knut Aalefjær (ドラムス) からなるトリオの魅力を存分に伝える一枚である。彼らの音楽は、北欧ジャズ特有の透明感とメランコリックな響きを持ちながらも、アフロ・アメリカン・ジャズの豊かな伝統に根ざした即興性とグルーヴを兼ね備えている。
アルバム全体に漂うのは、内省的でありながらも、聴き手の心に温かく語りかけるような音の風景である。タイトルが示唆するように、まるで小さなラジオから流れてくる親密な音楽のような、パーソナルな聴覚体験を提供してくれる。このアルバムの音像は、まるで静かな部屋の片隅に置かれたラジオから、優しく語りかけられているかのような感覚に陥る。
収録曲
- Grandfathers Waltz
- Look for the Silver Lining
- Chelsea Bridge
- Little Sunflower
- Love Song
- To The Little Radio (An Den Kleinen Radioapparat)
- Amapola
- Sonor
レコードで聴く『To the Little Radio』
この『To the Little Radio』というアルバムを、私はアナログレコードで所有している。オーディオファイル、いわゆる高音質盤としてリリースされたこのレコードは、そのサウンドの深みと臨場感において、デジタル音源では得られない格別の体験を提供してくれる。
では私の持っているアナログ盤を見ていこう。

私が所有しているのは2019年のリマスター盤である。マスター盤プレッシングが施されている。
マスター盤プレッシング
通常はカッティングされたラッカー盤(凹)から、マスター盤(凸)→マザー盤(凹)→スタンパー(凸)という工程でアナログ盤をプレスするが、「マスター盤プレッシング」ではマザー盤・スタンパー盤を制作せずにマスター盤から直接プレスする。2度のコピーを工程で省くため、カッティングに近い溝が形成され、よりダイレクトでリアルの音な再生が実現できる



盤は重量盤を採用している。日本語の帯と、オーディオライターの田中伊佐資氏の簡単なライナーノーツも付属していた。ディスクユニオンが運営する「クラフトマンレコーズ」からの発売で新品で購入した。価格は4,167円。いまも多分中古屋でたまに見かけるが、だいたい同じくらいの値段だ。
針を落とし、盤面が回転を始めると、まず感じるのはその静寂である。ノイズフロアが極めて低く抑えられており、Helge Lienのピアノが奏でる最初の音が、まるで暗闇に差し込む光のようにクリアに立ち上がる。アナログ盤特有の温かみと、音の粒立ちの良さが、このトリオの繊細なアンサンブルを一層際立たせるのだ。
ピアノの響きは豊かで、鍵盤を叩く指のタッチ、ハンマーが弦を打つ微かな音まで感じ取れるかのような生々しさがある。Frode Bergのベースは、深く、そして丸みのあるトーンで、まるでウッドベースが目の前で鳴っているかのような実体感がある。弦を指で弾くアタック、木製のボディが共鳴する微細な振動までが、アナログの空気感を通じて伝わってくるのだ。Knut Aalefjærのドラムスは、ブラシワークの繊細な擦れ音から、シンバルの余韻、バスドラムの深遠な響きに至るまで、そのすべてが空間に溶け込むように自然に再現される。特に、繊細なスティックワークによるゴーストノートや、シンバルの倍音がアナログの解像度によってより豊かに感じられ、トリオの一体感とグルーヴが立体的に立ち上がってくる。
デジタル音源では、ともすれば平坦に感じられがちな音場も、アナログ盤では各楽器の配置がより明確になり、奥行きと広がりが感じられる。これは、このアルバムが元々持つ音響的な美しさが、高音質アナログ盤というフォーマットによって最大限に引き出されている証拠であろう。目を閉じれば、まるで彼らが目の前で演奏しているかのような錯覚に陥る。それは、単に音楽を聴くという行為を超え、音楽に没入し、その世界を体感する究極のリスニング体験であると言える。
音楽的特徴とハイライト
1. Helge Lienのピアノ
Lienのピアノは、このトリオの心臓部である。彼の演奏は、ときに静かに深く、ときに情熱的に高揚し、その音色からは豊かな感情が伝わってくる。メロディックなフレーズは耳に残りやすく、ハーモニーは複雑でありながらも耳に心地よく響く。特に、静謐な瞬間における音の選び方や、空間を活かした間合いの取り方は、彼の並外れた感性を際立たせている。彼は、音と音の間の「間」を巧みに利用し、聴き手に想像の余地を与える。それは、北欧の広大な自然や、静謐な冬の風景を想起させるような、叙情的な音の絵画を描き出す。強弱のつけ方、ペダルの使い方、そしてコードヴォイシングの一つ一つに、彼の哲学が宿っているかのようだ。
2. リズムセクションの妙技
Frode BergのベースとKnut Aalefjærのドラムスは、単なる伴奏にとどまらず、Lienのピアノと密接に絡み合い、トリオのサウンドに深みとダイナミズムを与えている。Bergのメロディックなベースラインは、時にカウンターメロディのように歌い、Aalefjærのドラムスは、繊細なブラシワークから力強いグルーヴまで、幅広い表現で音楽を彩る。彼らの相互作用は、まるで三人で一つの生命体であるかのように自然で、聴き手を飽きさせない。特に、テンポチェンジやダイナミクスの変化において、三人の息は完璧に合致しており、そのアンサンブルは圧巻である。各々の楽器が独立しながらも、互いに支え合い、高め合う関係性が、このトリオの音楽を特別なものにしている。
3. オリジナル曲の美しさ
アルバムに収録されている楽曲のほとんどは、トリオのメンバーによるオリジナルである。これにより、彼らの音楽的ビジョンが純粋な形で表現されており、それぞれの曲が独自の物語を持っているかのようだ。北欧の広大な自然や、都市の喧騒、あるいは人間の内面世界を思わせるような情景が、音によって紡ぎ出される。どの曲もメロディが美しく、一度聴いたら忘れられない印象を残す。
個々の楽曲に見る深遠な世界
アルバム全体を通して、Helge Lien Trioは、各楽曲において異なる表情を見せながらも、一貫した世界観を保持している。
「Grandfathers Waltz」は、アルバムの幕開けを飾るにふさわしい、温かく親密なワルツである。Lienのピアノが奏でる優しく穏やかなフレーズは、まるで大切な思い出が蘇るかのような懐かしさを感じさせる。Frode Bergのベースは、メロディを包み込むように動き、Knut Aalefjærのドラムスは、最小限でありながらも的確なリズムで、曲全体に心地よい浮遊感を与える。この曲は、聴き手をHelge Lien Trioの繊細な音世界へと誘う、導入部として完璧な役割を果たしている。
「Little Sunflower」は、ジャズのスタンダード曲でありながら、Helge Lien Trioの解釈によって新たな生命が吹き込まれている。原曲が持つ温かさと希望に満ちたメロディはそのままに、トリオ特有の透明感と奥行きが加わり、より内省的で美しいハーモニーが展開される。Lienのソロは、技巧的でありながらも抒情性を失わず、聴き手を惹きつける。
そして、アルバムのタイトル曲である「To the Little Radio」。この楽曲は、アルバムのコンセプトを象徴する重要な一曲である。まるで夜更けに小さなラジオから流れてくる音楽のように、親密で、そしてどこか物悲しい響きを持つ。ピアノのメロディは優しく、しかし確かな存在感を示し、ベースとドラムスは、その音の隙間を縫うように、繊細な対話を繰り広げる。この曲は、音の空間と静寂の美しさを最大限に活かしており、聴き手の心に深く染み入る。
一押しの楽曲:「To the Little Radio」
このアルバムの中で、私が特に感銘を受けた一曲を挙げるならば、アルバムタイトルと同名曲の「To the Little Radio」である。この曲は、アルバムのコンセプトを最も明確に表現しており、Helge Lien Trioの真髄が凝縮されていると考える。
曲の冒頭から、Helge Lienのピアノは、静かで穏やかなタッチで、しかし非常に感情豊かにメロディを奏で始める。その音色は、まるで深い夜の静寂の中で、小さなラジオから優しく語りかけられているかのような、郷愁を帯びた温かさを感じさせる。抑制されたピアノの響きは、聴き手の内面に深く語りかけ、心を落ち着かせる。
Frode Bergのベースは、メロディラインに寄り添いながらも、時に優しく、時に力強く、曲のハーモニーに深みを与える。彼のベースラインは、単なる伴奏に留まらず、ピアノのメロディに対するもう一つの声として機能し、楽曲に豊かな対話をもたらす。Knut Aalefjærのドラムスは、ブラシによる極めて繊細なリズムワークで、まるで呼吸をするかのように曲全体を包み込む。彼のドラミングは、派手さはないが、一打一打に意味があり、音の空間を巧みに彩ることで、トリオのサウンドに奥行きと広がりを与える。
「To the Little Radio」は、静けさの中にこそ豊かな表現が宿ることを教えてくれる。音数を抑えながらも、一音一音が持つ意味合いが非常に大きく、聴き手の心に直接語りかけてくるような感覚がある。中盤にかけて、Lienのピアノソロは感情の高まりを見せるが、それは決して過剰なものではなく、あくまで抑制された美しさの中で展開される。彼のソロは、まるで語りかけるような叙情性を持ち、聴き手の想像力を掻き立てる。
この曲を聴いていると、まるで時間が止まったかのような感覚に陥る。日々の喧騒から完全に切り離され、自分自身の内面と深く向き合うことができるのだ。曲が終わった後も、その余韻は長く心に残り、静かな感動に浸ることができる。Helge Lien Trioの音楽性、特に感情表現の深さと、トリオとしての完璧な調和が最もよく表れているのが、この「To the Little Radio」であると私は考える。
まとめ
Helge Lien Trioの『To the Little Radio』は、単なるジャズアルバムではなく、魂に語りかけるような芸術作品である。静寂の中に宿る力強さ、繊細さの中に秘められた情熱。
彼らの音楽は、日々の喧騒から離れ、自分自身と向き合う時間を与えてくれる。ジャズ愛好家はもちろんのこと、心を癒やし、インスピレーションを求めるすべての人に、特にアナログレコードでのリスニング体験を含め、この素晴らしいアルバムを心からお勧めする。彼らの音世界は、一度足を踏み入れたら、もう離れることはできない魅力に満ちている。
コメント