私は長年ジャズを聴いてきたが、ビル・エヴァンスというピアニストは常に特別な存在である。彼の繊細なタッチ、深い抒情性、そして時に見せる内省的な世界観は、多くの聴衆を魅了してやまない。これまで何度も聴き比べやレビューをしてきた。どの作品もすばらしいし、その物理メディアも本当に素晴らしいものが多かった。
そんなビルの作品の中で、個人的に今でもどうもしっくりこない作品がある。ずばり、「Undercurrent」だ。
彼が残した数々の名盤の中でも、今回取り上げるジム・ホールとのデュオ・アルバム『Undercurrent』に関しては、いまだにその真価を完全に理解しきれていない、あるいは自分の中に馴染まない部分があるという感覚を抱えている。
今回は、私が先日購入した日本盤レコードの音質に触れつつ、このアルバムに対する私の個人的な感情を、率直に綴っていきたい。
『Undercurrent』という作品との出会い、そして戸惑い
『Undercurrent』は1962年に録音され、翌年にリリースされたアルバムであり、ビル・エヴァンスのピアノと、名ギタリスト、ジム・ホールのギターによるデュオ作品である。ジャズ・ピアノ・トリオの金字塔を打ち立て、まさにその頂点にあった頃、ベーシスト、スコット・ラファロの夭逝という悲劇を経験したエヴァンスが、ギターという異なる楽器、ジム・ホールとの対話を選んだこの作品は、その編成からして非常に興味深い。二人の巨匠が織りなす「水面下の流れ」を意味するタイトルは、彼らの音楽的対話の深さを示唆しているかのようだ。
私がこのアルバムを知ったのは、高校生の頃だった。当時よく通っていた仙台のCDショップの店に飾られたそのジャケットの美しさにまず惹きつけられた。当時私が見たのは青を基調とした、水面下に人がいるような神秘的なデザイン。これは後にジャケ違いだと気づくのだが、それにしても当時の私にとって非常に印象的で、どこか非日常的な魅力を放っていた。
以来、CDではこのアルバムを所有していたのだが、正直なところ、あまり頻繁に聴くことはなかった。何度か再生してみるものの、その静謐な響きや、時に聴き手を突き放すかのような緊張感に、どうもとっつきにくさを感じていたのだ。もっと刺激的な演奏、もっと分かりやすい感情の起伏を無意識のうちに求めていたのかもしれない。世間では名盤と評されているこの作品に対し、自分だけがその深淵に触れられないような、そんなもどかしさのようなものを感じていた。
そしてつい先日、私はついにこのアルバムをレコードで手に入れた。CDで感じていた違和感が、もしかしたらレコードという物理メディア、そしてアナログな音質によって解消されるのではないかという、かすかな期待を抱いていたのだ。
それでは私の所有盤を見ていきたい。

まずはジャケット。この美しさ、惹かれないはずがない。今回入手したのは表面に文字のないモノクロ版。これが青みがかってジャケットにアルバムタイトルを記載しているバージョンもあるが、やはりこのアート作品はモノクロのこのテイストが一番良いと思う。


ジャケット裏にも収録曲の記載はない。レコード盤は比較的重量があるようにも感じるが、まぁ普通の作りである。
レコードの音質が映し出す二人の内面
さて、いよいよ30年近いこのアルバムの解を求める意味で買い求めたアナログ盤である。ターンテーブルに針を落とした時の期待感は、今でも鮮明に覚えている。しかし、最初の数曲を聴き終えた時、私の心には小さな戸惑いが再び生まれていた。
静謐、内省的、繊細な対話……このアルバムを形容する言葉はいくらでも存在する。だが、正直に言えば、私にはその「静謐さ」が時に「重苦しさ」や「単調さ」に感じられてしまう。二人の演奏はあまりにも丁寧で、そして感情の起伏が極端に抑えられているように聞こえた。まるで、深い森の奥で二人が静かに語り合っているのを、遠くからそっと覗き見ているような、そんな親密ながらもどこか距離を感じさせる風景が頭の中に広がる。それは美しい光景かもしれないが、聴き続けるにはある種の「集中力」と「忍耐」を要するものであった。私が期待していた「ジャズの熱量」「いつものビル・エヴァンスのリリカルかつ美しいピアノ演奏」とは、やはり少し異なる温度感だったのだ。
しかし、この戸惑いや馴染まなさは、決してレコードの音質が悪いからではない。むしろ、日本盤レコードが持つ特有の音質の良さが、エヴァンスとホールの演奏の細部までを克明に描き出し、それがかえって私の「違和感」を増幅させている側面さえあると感じている。
私が所有する日本盤は、非常にクリアで定位感が優れている。特にピアノとギターの分離感は素晴らしく、それぞれの楽器がどこに位置し、どのような響きを持っているかが手に取るように伝わってくる。エヴァンスのピアノは、鍵盤を叩く指の繊細なタッチ、ペダルの踏み込みによる響きの変化までが鮮明に聴こえ、ホールのギターは、弦を弾くわずかな摩擦音や、フィンガーノイズまでもが克明に耳に届くのだ。
例えば、アルバム冒頭の「My Funny Valentine」。このジャズ・スタンダードは、多くのミュージシャンによって演奏されてきたが、このアルバムでのそれは、とてつもなく内省的で、そして美しい。日本盤レコードで聴くこの曲は、ピアノとギターがまるで一つの楽器であるかのように、あるいは互いの思考を読み合うかのように、完璧なタイミングで絡み合う。しかし、そのあまりにも精緻で抑制された対話は、私に「もっと何か」を求めてしまうのだ。もっと大胆な解釈、もっと感情的なぶつかり合い。だが、二人はそれを与えない。比較的性急に始まる演奏、ひたすら静かに、内省的に、そして極めて美しく演奏を続ける。このギャップが、私の心にさざ波を立てるのだ。
また、「Skating in Central Park」や「Darn That Dream」といった曲でも、その傾向は顕著である。エヴァンスのコードヴォイシングとホールの美しい単音弾きが絶妙に溶け合い、ハーモニーとメロディが織りなす繊細な綾は、紛れもなく「芸術」である。特に、日本盤レコードで聴くと、彼らの音の粒立ちの良さ、そしてそれぞれの楽器が持つ音色の深みやアナログ特有の丸みが、より鮮明に感じられる。しかし、そのハーモニーの美しさとは裏腹に、私にはどこか「完成されすぎた美」のように響くことがある。完璧すぎて、入り込む隙がない、とでも言おうか。まるで、熟練した職人が丹精込めて作り上げた、触れることを許されないガラス細工のような印象を受けることがあるのだ。
そして、このアルバムの独自性が際立つ「Dream Gypsy」は、その内省的な演奏が極まっているように感じられる。日本盤レコードは、この曲の持つミステリアスな雰囲気や、深い叙情性を、余すところなく伝えてくれる。エヴァンスのピアノとホールのギターは、まるで夢の中の情景を描写するかのように、静かに、そしてゆっくりと進んでいく。そのあまりにも親密でプライベートな空間に、私のような俗っぽい聴き手は、ただただ立ち尽くすことしかできない。
このクリアな音質は、彼らの演奏の「完璧さ」を際立たせる一方で、聴き手である私に「あなたはまだ、この境地に達していない」と突きつけられているような感覚を抱かせることがあるのだ。まるで、彼らが作り出す音のベールが、私の理解を阻んでいるかのように。
私の違和感、そして未だ続く探求
なぜ私はこのアルバムに「馴染まない部分がある」と感じてしまうのだろうか。それは、おそらく私がジャズに「スリル」や「高揚感」、あるいは「予測不能な爆発」を無意識のうちに求めているからかもしれない。彼らがトリオやカルテットで聴かせるような、熱を帯びたインタープレイや、スリリングなソロの応酬を、このデュオ・アルバムにも期待しているからかもしれない。
あるいは、単純に私の感受性が、このアルバムが持つ「静謐すぎる」世界観、そして「言葉にしない対話」に追いついていないだけなのかもしれない。エヴァンスとホールは、このアルバムで聴き手に何かを訴えかけようとしているのではなく、ただひたすらに互いの音と向き合い、その結果として生まれた「空気」を我々に提示しているだけなのかもしれない。だとすれば、私の理解不足は明らかである。
このアルバムを聴くたびに、私は自分自身の音楽に対する向き合い方、そして「静かな対話」というものの真髄を問われているような気がする。エヴァンスとホールは、この『Undercurrent』で、静かに、しかし雄弁に、互いを尊重し、深く聴き合うことの尊さを語っているのかもしれない。だが、私にはその尊さが、まだ十分に響いてこないのである。
しかし、不思議なことに、私はこのアルバムを完全に手放すことができない。時折、ふとこのレコードに手が伸び、ターンテーブルに針を落としている自分がいる。その度に、新たな発見があるような気がするのだ。一音一音を丁寧に追うことで、これまで気づかなかった彼らの呼吸の妙や、微細な音色の変化を感じ取ることもある。それは、まるで精巧なパズルをじっと見つめ、そのピースがどのように組み合わされているかを探すような作業に似ている。
もしかしたら、このアルバムは、私が人生経験を重ね、より深く物事を理解できるようになった時に、その真価を発揮する作品なのかもしれない。今はまだ、その時ではないだけなのかもしれない。
ビル・エヴァンスとジム・ホールの『Undercurrent』は、私にとって、音楽の奥深さと、そして自分自身の未熟さを教えてくれる、ある種の「問いかけ」のようなアルバムである。しかし、この違和感があるからこそ、私はこのアルバムに魅了され、未だにその探求を続けているのだ。いつか、このアルバムが私の中で完全に昇華される日が来ることを願いつつ、今日も私はターンテーブルに針を落とす。
アルバム情報:
- アーティスト:Bill Evans & Jim Hall
- アルバムタイトル:Undercurrent
- リリース年:1963年 (録音1962年)
収録曲:
- “My Funny Valentine”
- “Romain”
- “Skating in Central Park”
- “Darn That Dream”
- “I Hear a Rhapsody”
- “Dream Gypsy”
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