【作例あり】3万円のジャンク沈胴エルマー。不便な「目分量」が最高な理由

カメラ・写真
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ライカの格言に「エルマーに始まり、エルマーに終わる」という言葉がある。カメラ好き、とりわけライカ沼の住人であれば一度は耳にしたことがあるだろう。しかし、いざエルマー(Elmar 50mm f3.5)を手に入れようとすると、昨今のライカバブルの影響もあり、状態の良いものは8万円から9万円、いわゆる「赤エルマー」や初期のニッケルエルマーなどになれば10万円を優に超えてしまう。

「エルマーは欲しいが、ちょっと高すぎる」 「ジャンク扱いのレンズって実際のところどうなのだろう?」

そう足踏みしているあなたに向けて、今回は私が新たに手に入れた「3万円のジャンク沈胴エルマー(1938年製)」の魅力と、その生々しい作例を余すところなく語っていきたい。結論から言えば、このジャンクエルマーは私にとって「最高の実用レンズ」となった。多少の曇りや不便さすらも、写真を撮るという行為の純度を高めてくれるスパイスなのだ。

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なぜ「3万円のジャンク」を選んだのか?新宿での運命的な出会い

私がこのエルマーと出会ったのは、新宿にある「北村写真機店」の3階、いわゆるジャンク品や実用クラスの中古品が並ぶフロアである。同店の6階にはウン百万円からウン千万円という、それこそ「プライスレス」なヴィンテージライカが鎮座する美しい専門フロアがあるが、私のような実用派が血眼になって掘り出し物を探すのは、決まってこうしたジャンクコーナーだ。

ショーケースの片隅に置かれていたそのエルマー50mm F3.5は、シリアルナンバーから推測するに1938年製。戦前のレンズである。値段は約3万円と、相場の半値以下だった。理由は明確で、レンズ内に拭き傷や曇り(クモリ)が残っていたからだ。複数並んでいたジャンクエルマーを見比べ、最も曇りの程度がマシなものを吟味した。

「レンズの曇りが写真にどう影響するかは、撮ってみないと分からない」 これはオールドレンズ愛好家の共通認識である。私は過去の経験から「この程度の曇りなら、逆光時にフレアが盛大に出るくらいで、順光ならオイシイ描写になるはずだ」と踏んだ。何より、3万円という価格は魅力的だ。もし失敗しても諦めがつくし、実用レベルなら儲けものである。私は迷わずこの1938年製エルマーを我が家へ迎え入れることにした。

現代の真逆を行く「不便さ」が愛おしい(沈胴ギミックと目分量絞り)

私がなぜこのエルマーを欲したのか。ライカが誇る銘玉は数あれど、エルマーの最大の魅力はその「ギミック」と「不便さ」にあると言っていい。

まずは「沈胴式(ちんどうしき)」であること。 レンズの鏡筒を手前に引き出し、少し回して「シャコンッ」とロックする。この一連のメカニカルな動作がたまらなく心地よい。リジッド(固定式)のズミクロンなども素晴らしいが、沈胴レンズを伸ばすときのあの感触は、これから写真を撮るぞという儀式のようなものだ。そして、使わないときはレンズを押し込んでおけば、ボディキャップのように薄くなる。この圧倒的な携帯性は、旅行やスナップにおいて絶大なアドバンテージとなる。

さらに特筆すべきは、エルマー特有の「絞り操作」だ。 レンズ先端にある小さな爪に指を引っかけ、くるくると回して絞りを変えるのだが、この1938年製の個体は現代の絞り値(F2.8、F4、F5.6、F8…)とは異なる大陸系列のスケールが刻まれている。たとえば、スナップで多用する「F8」という数値が存在しないのだ。目盛りに刻まれているのは「F6.3」と「F9」。ではF8で撮りたい時はどうするか?

答えは「6.3と9の間の、だいたいこの辺りだろうという位置に爪を合わせる」である。つまり、目分量なのだ。 現代のデジタルカメラであれば、ダイヤルをカリカリと回せば正確な絞り値が電子接点を通じて記録される。しかし、このエルマーにはそんな正確さなど微塵もない。だが、それがいい。デジタル社会で何もかもが数値化・自動化される中、自分の指先と勘を頼りに「だいたいこのくらい」で絞りを決める。この曖昧さが、たまらなくエモーショナルなのだ。「写真を撮る」という行為そのものを楽しむという意味において、これほど贅沢な不便さはない。

【作例】1938年製ノンコートレンズが切り取る「空気感」

肝心の写りはどうなのか。論より証拠、私がこの1ヶ月間、雨の多い時期にライカM3とフィルムの組み合わせで撮影した作例を見ていただきたい。ノンコーティングレンズ特有の、あるいはジャンクゆえの微小な曇りが生み出す、極めて繊細で柔らかい世界がそこにある。

まずはこちらの一枚。年季の入った水飲み場の光景だが、ハイライトからシャドウにかけての階調が非常に滑らかで、どこかノスタルジックな淡い色合いが出ている。現代のレンズのようなバキバキの解像感や高コントラストはないが、被写体の持つ温度感や、その場の湿潤な空気までをも切り取っているかのような写りである。

白い壁を背景に咲く赤い薔薇。オールドレンズらしい、少し彩度が落ち着いた渋い発色だ。曇り玉であっても、主題となる花びらの輪郭はしっかりと捉えられており、ただ甘いだけの描写ではないことがお分かりいただけるだろう。

線路沿いに咲く朝顔を低いアングルから狙ったカット。ピントを合わせた花から、奥の線路とフェンスに向かってなだらかに溶けていくボケ味が美しい。周辺のざわつきも少なく、被写体が優しく浮き上がるような立体感が感じられる。

続いて、雨に濡れた花と背後を走る電車のカット。開放付近での撮影だが、ピント面の芯は思いのほか残っている。ノンコートゆえに逆光や強い光にはめっぽう弱く、フレアも出やすいが、それすらも「味」として作品の一部に昇華されてしまう。どんよりとした曇り空の空気感が、1938年のガラスを通して見事に表現されている。

高架下から続く線路の光景。無骨な鉄骨の質感や、線路の砂利のディテールが、少しオールドライクな低コントラストのベールに包まれている。シャドウ部が黒潰れせず、暗部にもしっかりと情報が残っているのは、階調豊かな古いレンズならではの魅力だ。

雨の渋谷を歩く人々を捉えたスナップ。ジャンクの曇り玉と侮るなかれ、ピントを合わせた傘の質感や、人々の衣服のディテールはしっかりと描写されている。梅雨特有の重たい空気が絶妙に演出されており、最新のレンズで撮ればただの「雨の記録」になってしまう光景も、エルマーを通すことで情緒を帯びる。

最後は雨の渋谷スクランブル交差点。手前を横切る人物が大きくブレて写り込んでいるが、こうした予測不能な動体との交差もスナップの醍醐味だ。背景の濡れたアスファルトの反射や、行き交う人々の群像劇が、シネマティックな一枚に仕上がっている。

専門的な色の出方や解像度については各種検証データに譲るが、少なくとも私が求める「エモーショナルな写り」において、この3万円のジャンクエルマーは100点満点であった。

バルナックにもM3にも似合う究極の日常レンズ

今回私はライカM3に装着して撮影を行ったが、やはりM3のファインダーは素晴らしく、鏡筒が長いエルマーであってもピント合わせは非常にスムーズだった。 しかし、このエルマーの真価が発揮されるのは、以前当ブログでも紹介した1935年製のバルナックライカ(DIIIなど)に装着した時だろう。

バルナックライカは元々50mmレンズを基準に設計されているため、外付けファインダーなしでそのまま覗いて撮ることができる。沈胴させれば、あの小さなバルナックのボディと相まって、コートのポケットにすっぽりと収まる最高の携帯ツールとなるのだ。 年代的にも1935年のボディと1938年のレンズという組み合わせは、歴史的なロマンを感じずにはいられない。M3で正確なピント合わせを楽しむもよし、バルナックで軽快なスナップに興じるもよし。どんなライカボディにも似合い、かつ実用性に富むエルマーは、まさに究極の日常レンズである。

まとめ:一生モノは、一生が終わる前に買え

「エルマーに始まり、エルマーに終わる」 先人たちが残したこの言葉の真意は、幾多の銘玉や高級レンズを渡り歩いた果てに、結局はそのシンプルで美しい描写と使い勝手の良さに立ち返る、ということなのだろう。

私自身、自分の人生を終わらせる気は毛頭ないし、死ぬまでお金を抱え込んでおくつもりもない。「一生モノ」と呼ばれる道具は、人生の終わりの方で手に入れるのではなく、今すぐ手に入れて、残りの人生を共に歩むべきなのだ。「一生モノは一生が終わる前に買え」、これが私の哲学である。

結果論ではあるが、私にとってこのジャンクエルマーは大正解だった。 状態の良し悪しや「赤エルマーでなければ」といったマニアックなこだわりに縛られすぎず、手の届く価格の個体と出会ったなら、まずは飛び込んでみることをお勧めしたい。多少の曇りや、絞りの目分量といった「不便さ」すらも、あなたとカメラを深く結びつける愛おしい要素に変わるはずだ。

もしあなたがエルマーの購入を迷っているなら、ぜひ一度その「シャコンッ」という沈胴の感触と、戦前レンズが描き出す柔らかな光の世界を味わってみてほしい。

詳しい動画はこちらから。

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