はじめに:高騰するライカレンズへのアンチテーゼ

ライカというカメラを使っていると、遅かれ早かれ「レンズの壁」にぶち当たる。ボディを手に入れるだけでも清水の舞台から飛び降りるような思いをしたというのに、その先に待っているのは、ボディ以上に高額な純正レンズの沼だ。
特にM型ライカにおいて、35mmと50mmという王道を揃えた後に欲しくなる「中望遠」の75mm。この画角はポートレートにもスナップの切り取りにも絶妙な距離感をもたらしてくれるが、純正のラインナップを見ると眩暈がする。
現行の『Summilux-M 75mm f/1.4』や『APO-Summicron-M 75mm f/2 ASPH.』の価格をご存知だろうか。中古市場ですら高騰を続け、新品同様のものなら60万円、80万円というプライスタグが平然とぶら下がっている。おいそれと手が出せる金額ではない。車が買える。あるいは、素晴らしい旅に何度も出かけられる金額だ。
そんな中、ふと目に入ったのがThypoch(タイポック)というブランドの『Simera 75mm f/1.4』である。
中国深センのシネレンズメーカーから派生したこの新興ブランドが放つレンズは、驚くべきことにライカ純正の5分の1以下の価格、約10万円強で手に入るという。焦点工房のサイトでスペックを確認し、そのデザインと仕様を眺めているうちに、私の手は自然と「注文」ボタンを押していた。
今回は、愛機ライカM-P(Typ240)にこのThypoch Simera 75mm f/1.4を装着し、実際に街へ連れ出したインプレッションを記したいと思う。
Thypoch Simera 75mm f/1.4 というレンズ
驚異的なコストパフォーマンス

まず言及すべきは、やはりその価格だ。税込で103,600円(執筆時点。2025年のブラックフライデーセール適用)。 ライカMマウントの大口径f1.4レンズとして、これは破格といっていい。Voigtländer(フォクトレンダー)などの国産サードパーティ製レンズも優秀だが、Thypochはそれらともまた違う、独特の「妖艶さ」を纏ったデザインで攻めてきている。
「安かろう悪かろう」という時代はとうに過ぎ去った。アルミ合金製の鏡筒はひんやりと冷たく、適度な重量感(約372g)があり、所有欲をしっかりと満たしてくれる。距離計連動カムの精度も問題なく、箱を開けた瞬間のビルドクオリティの高さには正直驚かされた。
特徴的な「Visifocus」と操作感
このレンズの最大の特徴は、鏡筒に刻まれた「Visifocus」と呼ばれる被写界深度スケールだろう。

赤いドットが絞り値に応じて動き、ピントの合う範囲を視覚的に教えてくれる。実用性もさることながら、このギミックがメカニカルな美しさを際立たせている。
絞りリングにはクリック音のON/OFF切り替えスイッチがあり、動画撮影(シネレンズメーカーの出自を感じさせる)にも対応しているが、スチール撮影メインの私としては、カチカチというクリック感が心地よく、撮影のリズムを作ってくれる点が好印象だ。
75mmという画角の「魔力」と「難しさ」
普段、私は35mmや50mmのレンズを常用している。スナップシューターにとって35mmは「見たままの景色」を、50mmは「注視した景色」を切り取るのに最適だ。しかし、75mmとなると話が変わってくる。

ファインダーを覗いた瞬間、世界がグッと引き寄せられる。
M-P(Typ240)のブライトフレームにおいて、75mm枠はかなり小さい。50mm枠の内側にちょこんと表示されるその枠の中に、被写体をどう収めるか。これまでの感覚でカメラを構えると、「近すぎる」と感じることが多々ある。

普段のスナップ感覚でシャッターをきると、ある種の圧迫感をおぼえるほど近い。
慣れが必要な距離感
35mmの感覚で街を歩いていると、気になった被写体にレンズを向けた瞬間、フレームからはみ出してしまう。一歩、いや二歩下がる必要がある。この「下がる」という動作が、撮影のテンポを微妙に変える。

しかし、この不自由さが逆に面白い。漫然と撮ることを許さない画角なのだ。
被写体と背景の関係性をより意識させられ、余計な情報を削ぎ落とすことを強制される。その結果、写真はより主題が明確になり、物語性を帯びてくる。

慣れるまでは「狭い」と感じるかもしれない。だが、使い込んでいくうちに、この75mmという焦点距離が持つ「孤高の視点」のようなものが心地よくなってくるから不思議だ。
描写性能:明るさとボケ味
開放f1.4の世界
肝心の写りについてだが、結論から言えば「素晴らしい」の一言に尽きる。いや、言い過ぎか?まだ使い始めたばかり、そこまで言い切るのもどうか。ただ間違いなく「及第点以上」ではあると思う。
10万円のレンズとは思えないほど、開放からしっかりと解像する。ピント面はシャープでありながら、カリカリしすぎない適度な柔らかさを残している。

そして何より、ボケが大きい。
f1.4の大口径が生み出すボケは、背景を溶かすように美しく、被写体を浮き上がらせる。16枚の絞り羽根のおかげで、少し絞ってもボケの形は円形を保ち、非常に滑らかだ。ライカ純正のズミルックスが持つ「とろけるようなボケ」とまでは言わないまでも、十分にシネマティックで情緒的な描写を見せてくれる。
この価格で、この立体感。
「ライカのレンズは高すぎて買えないが、あの独特の空気感が欲しい」という層にとって、このレンズは一つの正解になり得るのではないだろうか。
私的なスウィートスポットは「f2.0」
開放f1.4での撮影も魅力的だが、個人的に最も使いやすいと感じたのは、少し絞った「f2.0」あたりだ。

f1.4では被写界深度が極端に浅く、レンジファインダーでのピント合わせにかなりの集中力を要する。特に近接撮影(最短0.6mまで寄れるのもこのレンズの美点だ)では、わずかな体の揺れでピントが外れてしまう。

f2.0まで絞ると、ピントの山が掴みやすくなり、描写の芯も太くなる。周辺減光も改善され、画面全体のバランスが非常に良くなる印象だ。ボケ量も十分に大きく、背景の状況も適度に残るため、スナップ写真としての完成度が高まるように思う。
「開放で撮れる」という余裕を持ちつつ、あえて一段絞って使う。これが、このレンズとの上手な付き合い方かもしれない。
ライカM-P(Typ240)と暗所撮影の現実
Thypoch Simera 75mm f/1.4は、その明るさゆえに「夜のスナップ」への期待を高めてくれる。しかし、ここでボディ側の限界という現実に直面することになる。

私が愛用しているライカM-P(Typ240)は、2014年発売のモデルだ。搭載されている2400万画素のCMOSセンサーは、独特のこってりとした色乗りと、CCDセンサー時代の名残を感じさせる階調表現で今なお根強い人気を誇るが、高感度耐性については現代の基準からすると厳しいと言わざるを得ない。
ISO6400の壁
夜の街角。街灯の明かりだけを頼りに撮影するシチュエーション。

f1.4の明るさは確かに武器になる。ISO感度を抑えてシャッタースピードを稼げるからだ。しかし、それでも光量が足りない場面は多い。

Typ240のISO設定上限であるISO6400まで上げると、どうしてもノイズが目立ってくる。カラーノイズが乗り、シャドウ部のディテールが崩れ始めるのだ。モノクローム現像を前提とするなら、その粒子感を「味」として許容できる場合もあるが、カラーで綺麗に残したいとなると、実用的な限界はISO1600、頑張ってISO3200といったところだろう。
最新のM11やM10-Rであれば、ISO6400はおろかISO12500でも平気で使えるのかもしれない。しかし、Typ240ユーザーにとって、暗所撮影は依然として「光との戦い」であることに変わりはない。
f1.4がもたらす恩恵
だからこそ、このレンズのf1.4という明るさが活きてくる。
もしこれがf2.0やf2.4のレンズであれば、ISO感度をさらに一段、二段上げなければならず、画質の劣化は避けられない。f1.4があるおかげで、なんとかISO1600〜3200の範囲で踏みとどまることができる。
「それでも、暗所ではきつい時が多い」というのが正直な感想だが、このレンズのおかげで、これまで諦めていたシーンにシャッターを切る勇気を持てるようになったのは事実だ。

まとめ:Thypochは「買い」か
総じて、Thypoch Simera 75mm f/1.4は、非常に満足度の高いレンズである。
ライカ純正レンズの圧倒的なブランド力や、歴史に裏打ちされた伝説的な描写性能には及ばない部分があるかもしれない。しかし、その「5分の1以下」という価格差を考えたとき、このレンズが提供してくれる体験の価値は計り知れない。
しっかりと明るく、美しくボケる。
金属鏡筒の質感も良く、操作する喜びがある。
そして何より、75mmという新しい視点を、現実的な価格で手に入れることができる。
35mmや50mmの画角に慣れ親しんだ身体にとって、75mmは少々窮屈で、慣れを要する画角だ。しかし、その窮屈さの向こう側に、今まで見えていなかった「切り取られた世界」の美しさがある。
ライカM-Pという少し古いデジタルライカで、マニュアルフォーカスを駆使し、絞りを操作して光を操る。そんなプリミティブな写真の楽しみを、このレンズは改めて教えてくれたような気がする。
もしあなたが、Mマウントの中望遠レンズを探していて、純正の価格に躊躇しているのであれば、迷わずこのThypochを試してみてほしい。
きっと、ファインダーの中に新しい世界が広がっているはずだ。



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